家庭連合の解散命令は、イエス様の十字架と酷似!!(その2)
では、神様はその堕落したアダム・エバをそのまま見捨てられたでしょうか? 否です。
聖書では神様はアダム・エバをエデンの園(天国)から追い出されたと書かれていました。
【全知全能な神様】ですから、そのアダム・エバを切り捨てて新しく造られることも可能だったでしょう。しかし、
【絶対的な神様】でもありますから、ご自身が一度決められたことには従わざるを得ない(「絶対服従」)ことも事実です。まして、
【真の愛の神様】ともなれば、残酷にもアダム・エバを抹殺してしまうことなど、到底出来なかったというのが真実です。
苦渋の策としてアダム・エバをエデンの園から追い出された神様でしたが、果たして、それを善しとされたでしょうか?
むしろ、その神様も「真の愛」を発動できない【天上地獄】のなかで
【囚われの神様】として生きてこられた老人だと初めて解かれたのが、
家庭連合の文鮮明・韓鶴子総裁夫妻です。
2000年前のイエス様もまた、そのような「悲しみの神様」と出会われたお方でしたので、
全知全能で絶対的な主従関係による【独裁者的な神様】ではなく、
イエス様が【天の父】と呼ばれて、
初めて神様と人間が【父子の関係】であることを説かれて、
神様もイエス様を「第二アダム(実子)」として抱かれたのでした。
当時のユダヤ教からはそのイエス様を受け止めることが出来ず、「神を冒涜する者」として排斥されたため、イエス様は使命途上で「再臨を約束」されては十字架の道を行かざるを得ませんでした。
『統一原理』での詳細はここでは書くことは出来ませんが、関心のある方は以下リンク先をお読みください。
以下はそれの抜粋です。
神のすべての摂理がそうであったように、イエスも、ユダヤ人に対して、自分をメシヤとして信ずることができるように語り、行動されたという事実を、我々は聖書を通して、はっきりと知ることができる。イエスは、弟子たちがいかにすれば神のみ業を行うことができるかと聞いたとき、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」(ヨハネ六・29)と彼は答えられた。また、イエスは、ユダヤ人たちの背信行為を痛ましく思い、訴えるところなく、都を見渡して泣きながら、神が二〇〇〇年間も苦労して愛し導いてこられた全イスラエル選民はもとより、この城までも、一つの石も他の石の上に残さず滅ぼされてしまうと嘆かれて、「それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」(ルカ一九・41〜44)と、明白にその無知を指摘されたのである。それだけではなく、イエスは、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」(マタイ二三・37)と言いながら、彼らの頑固と不信を嘆かれたのであった。イエスは、自分のために証している聖書を見ながらも信じない、彼らの無知を責めながら、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネ五・39、40)と悲しまれた。また、彼は「わたしは父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受けいれない」と嘆きながら、「もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである」(ヨハネ五・43、46)とも言われた。
ところが、聖書ではイエス様が裁かれたのは、ユダヤ教の教理や風習とかによってであれば「石打の刑」はありましたが、当時イスラエルを支配していたローマの法律による「十字架」によって処刑されたものでした。
キリストの磔刑(キリストのたっけい、英語: The Crucifixion of Christ, The Crucifixion of Jesus)とは、イエスがエルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判したため、死刑の権限のないユダヤ人の指導者たちによって、その権限のある支配者ローマ帝国へ反逆者として渡され、公開処刑である十字架に磔となって処刑されたというものである。キリスト教の教義においては、救い主であるイエス・キリストが人類をその罪から救うために、身代わりに磔になったものとされる。
<その3に続く>
【拡散希望】あなたの署名が信教の自由を守る最後の砦
このままでは、信仰を持つ権利が奪われる前例が作られてしまいます。
今、家庭連合が不当な手続きで「解散」させられようとしています。
これは一宗教団体だけの問題ではありません。
明日は、あなたの信じるものが狙われるかもしれないのです。
賛同される方は、以下署名欄へお願いします。