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Re:”99.999%と0.001%の根拠” は文総裁み言「全て、相対の為です。」


上記記事から韓鶴子総裁の2023年5月18日み言についてですが、「99.999%と0.001%の根拠を明らかにして欲しいものです」との疑問を投げかけていました。

本稿に記されている99.999%の女性と0.001%の男性の根拠は不詳ですが,僅か50μmの精子が100μmの卵子と合体する処から,人の生命は生まれます.精子の質量は10-10kg程度です.胎児の体重は2-3kgですから,精子と胎児の比は,10-10のオーダになります.しかし,極小の精子が遺伝を大きく左右しています.遺伝学的には,子供は父母のいずれかの形質の少なくとも1/4は受継ぐことが判明しています.つまり,75%と25%です.99.999%と0.001%の根拠を明らかにして欲しいものです.神様は,人間には容易に分からないような処に重要な秘密を隠しておられるようです.将来,人間が神様の隠した秘密を一つ一つ更に解き明かして,万人が平和と幸福を享受する時代が来るでしょう.


それに関して私の過去記事(黒・天聖経の引用)で目にしたものがありましたので、参考にしてください。文鮮明総裁も語られていたものです。


韓総裁が語られたみ言も以下のお父様み言に連結されてのものと思います。



「真の家庭」

第十二章 真の家庭を求めて


◆一 自己の為に生じたものは一つもない


 どこに個人主義がありますか。自己において自己だけを主張する部分は一つもありません。子供が父母の愛によって母親のおなかの中で、卵子から育って生まれる時、九九・九九九パーセントは母親の骨と血と肉です。そして〇・〇〇一パーセントの一つの父親の精子が合わさって生まれるのです。そこには自己という概念はあり得ません。​

​ 誰でも生まれる時、自分自身だけという概念はなかったのです。いかに立派な人であっても、自分一人で立派に生まれついたといえる人は一人もいません。骨や血や肉も全て母親のおなかの中で譲り受けたものです。この体の重要な部分は、母親の体の延長という事実を認めなければなりません。私達の体のあらゆる要素は、卵子と精子に含まれていたのです。例外はありません。ですから、個人主義というものが存在する根拠がないのです。​

 上という言葉が成り立つ時は、下を認めたうえでいう言葉です。上という事だけで、個人主義が成り立つでしょうか。個人だけという概念はあり得ません。右というのは、左というものをあらかじめ前提としたうえでいう言葉です。前後について見ても、前というのは後ろを前もって認定していう言葉です。男性という言葉も、男性一人を念頭に置いていう言葉ではありません。女性を前提条件にしていう言葉なのです。これは、誰か一個人の言葉なのではなく、宇宙的な事実です。

 男性は何故生まれたのでしょうか。男性達は自分一人で生きていけるので、そのような事に関心がないなどとよく言いますが、男性は女性の為に生まれたのです。女性がいなければ、男性は必要ありません。絶対的に必要ないのです。結局、自分の為に生まれたものは、一つもないのです。

 私達の五官を見て下さい。自分の目が、自分の目を見る為に生まれたのでしょうか。鼻や耳、口、手も全て相対の為に生まれました。五宮を総動員して、集中させる事の出来るその力が何かといえば、真の愛です。目、鼻、耳、口、手は、真の愛の為に生まれた真の愛の道具です。自分の為に生まれたものは一つもありません。

 反面、人のものを自分のものにする人を泥棒といいます。人のものを持ってきて、自分のものとして使う人は泥棒ではないでしょうか。ですから女性の為に生まれた男性の五官と体を、自分勝手に使う人は泥棒なのです。

 男性と女性は、何が互いに異成るのでしょうか。生殖器を含んだ体が異なります。では、男性の生殖器は、誰にとって絶対に必要なのでしょうか。男性の生殖器は、女性の為にあるのです。人間の生殖器の一つは凹であり、一つは凸ですが、何故その様になったのでしょうか。二つとも、とがらせるとか、二つとも平べったくする事が出来るのに、何故その様に異なって生まれたのでしょうか。全て、相対の為です。

 男性のものは、女性が絶対に願い、女性のものは、男性が絶対に願います。女性のものは、絶対に男性のものであり、男性のものは絶対に女性のものだという事実を知らなかったのです。それを占領する事によって、愛を完全に知るのです。

​ 二つが一つに成るような経験を通してのみ、最高の高い境地の愛を知る事が出来るのです。どこの誰であれ、このような事実を絶対に否定する事は出来ません。誰でもみな、認定しなければならないのです。二つが完全に一つに成るその場で、理想的な夫婦が生まれます。まさに、その場に絶対愛が存在するのです。絶対的に変わらないそのような愛の場に、神様が臨在されるのです。(祝福家庭と理想天国I-六二)​