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ほふられた子羊さんへ--「文鮮明先生御言選集 19890108 - 氏族的メシヤ」から」

ほふられた子羊さんへ:

都合が悪くなり、再度の私のコメント削除ですか?!



文総裁み言の引用を巡っては、子羊さんのそれに無理(矛盾)が見られることの指摘をしてきましたが、(偏見の)色眼鏡を外そうとはされず我欲で実弾でない「空砲(デマ記事)」は見苦しいに尽きます。


1992年における「真の父母宣布」はありましたが夫人の韓鶴子総や教会幹部らの不信によって「未来形」で語られていたものだとして文総裁夫妻は「メシヤ=再臨主≠真の父母」、宣布はしましたが「真の父母」ではないというものでした。
これに限らず子羊さん曰く、文鮮明総裁のみ言からは氏族的メシヤの「氏族=食口」であって、文総裁が示す「氏族」は肉親の父母や親族ではない、ということでした。


文総裁のみ言暗号文解読表「メシヤ=再臨主=真の父母」は1992年の「真の父母宣布」の時に語られたものでしたが、それと違った主張をされているのが子羊さんです。その根拠となるみ言引用をみれば、「注釈付き解釈」によって歪曲・改ざんされたものででした。文総裁の別のみ言からは「拳なら拳、糞なら糞」とそのままに書き記せ、とありました。これをもってしても子羊さんの「注釈付き解釈」の挿入はルール違反であり、明らかな間違いであるの指摘をしてきました。


子羊さんはまた、あなたの主張に間違いがあればすぐにでもブログを閉じる、とも豪語されていました。私の過去記事からは以下です。




さて、私からは次に以下の文総裁のみ言を準備しました。
子羊さんの「暗号文解読表」では「氏族=食口」ですが、どのような解釈をされますでしょうか?


氏族的メシヤ

1989年1月8日


神を求めた人類歴史


 人間は宗教を通して、長い歴史をかけて神を求めてきました。原因的存在である神を探し求めてきたのです。宗教によって人類は信仰し、祈祷し、修道する生活をしながら、神に帰ろうとしてきたのです。


 人間が神の実在に疑問を抱くのは、神と関係がないからです。しかし、原因があれば結果があり、結果があれば原因があるように、人間がどこまでも結果的存在である以上、原因的存在である神と無関係に過ごすことはできません。


 人類始祖アダム・エバの堕落がなければ、宗教は必要ありませんでした。宗教のない世界は神を中心とし、神の愛によって超国家的な理想圏の中で人類が生きる世界です。人類の生活や歴史は、神の理想を受け継いで縦的な歴史と横的な社会に連結されたはずです。その世界では、人間が神を中心として世界を包括していかなければなりませんでした。


 広大無辺な神の創造は、まず環境から始まりました。初めに天と地がつくられ、その次に動植物の環境、最後に人間が造られました。皆さんが知らなければならないことは、環境の中には必ず主体と対象の関係があるということです。個人においては、心と体がそれぞれ主体と対象の関係を結びます。家庭には父母と子供たちが、国家には主権者と国民がそれぞれ主体と対象の関係を結びます。主体と対象が授け受けしていくことを通して発展していくのです。


 では、なぜ主体と対象という関係があるのでしょうか。それは神が愛を願われるからです。神の愛は、相対的関係を通してこそ感ずることができます。神御自身すら、御自身のもっておられる愛を感じるには、相対を通さなければなりません。ゆえに、宇宙は動植物界も鉱物界もすべて、相対関係をもっているのです。人間においてはそれが男性と女性とに現れています。


 それゆえ男性と女性は結婚しなければなりません。それは、それぞれの愛を相対を通して感じることができるようにするためです。対象を通じてのみ愛の刺激を感じます。一つが上へ行くなら他は下へ戻り、一つが右へ回るなら他は左へ戻ります。そのような作用が起こるのです。


 対象が現れることによって、すべてのものが美として現れます。人間の造作はみな、目、鼻、耳、口、それに手足があって、どこといって変わったものはありませんが、そこに愛の因縁、愛の関心があるならば、永遠にその姿を美しく見ることができるのです。その愛を中心として喜び、調和を成して生きるのです。


愛で造られた人間


 つまり、愛とは神の創造を理想化させる力です。上下、左右、前後関係が互いに作用し合って球形をなし、千態万象の妙味を備えて回ります。愛が加味されるとそうなのです。運動も円形を描いて運動するほど消耗が少ないのです。


 愛が前後、左右、上下の関係を円滑に処し、円満にしていきます。円満という言葉の中には人間はもちろん天地全体が入るのです。前後、左右、上下を善でくまなく覆い、互いに和動できるようにするのが愛です。
 神は創造主です。創造主とは根源、つまり主体ということです。創造物は対象です。画家が自分の構想どおりに展開させて自分の心にかなう傑作品をつくるように、この被造世界が神の構想どおりになり、神の心にかなうべきだったのです。心にかなうものは、心に適した存在ですから、その体を代身したものとなります。つまり、目にかない、鼻にかない、耳にかない、すべての細胞まで和合できるようになるということです。その時心と体が一つになっているというのです。


 心と体の和動は真なる愛によります。真なる愛とは根本的な愛です。


 神は愛ゆえに人間を創造されました。男性と女性が神と一つになって相和す内容は、すべて愛で因縁づけられるのです。夫婦関係、親子関係、兄弟関係、社会関係、政府関係等々と、すべてのものが関係づけられています。必ず相対と一つになって協力し合うことによって、現在より高い次元に至る、つまり発展が展開されます。


 発展ということは現在の状態に新しい何かがプラスされるということです。プラスさせるものが創造です。自分を中心とした一つの創造です。そこには必ず愛する心が先立たなければなりません。


 神が愛で天地を創造されたのと同様に、愛の心が先立ち、そこに前進的な結果をもたらすというのが第二創造です。お金や知識、権力では第二創造をすることはできません。


 愛で活用する時、調和が起こり、発展していきます。例えば、知識を愛してきた教授が自分の心と体が愛で和して一つになった位置で知識の内容を語るなら、その言葉や表情によって学生たちは感動を受け、新しい次元に発展していくのです。発展するために恵みが与えられます。


調和の幅を備えた人


 環境の中には主体と対象があり、それらは愛を中心として授受して連結され、発展していきます。こうして運動が持続されるのです。ですから、皆さんの生活環境をどのように世界に連結するのかが問題です。環境に主体と対象の関係があることを知って収拾しなければなりません。


 鉱物界も動物界、植物界も同じです。愛を中心として和して、花を咲かせ、発展していきます。男女間の愛は、自分を中心としていた愛から、互いのために愛するようになり、さらに子女が生まれるならば、夫だけ妻だけ愛する時代は過ぎ去ります。このように愛の範囲は広がり、発展していくのです。


 ですから、「愛は始まりであり、終わりである」というのです。コリント人への第一の手紙第一三章には「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」と記してあります。


 男性と女性が結婚するのは、愛が必要だからです。愛を中心として主体と対象になる日、宇宙は保護するようになっています。対象は主体のために、主体は対象のために生き、この宇宙に永遠の安着地を探し求めるためなのです。その安着地は、運動しながら生きる愛が宇宙から永遠に保護を受けるところなのです。


 大きくも小さくも、どこに行っても、どんな状況でも調和させることができる人ほど有能な人と言えます。上下、前後、左右に通ずる人が素晴らしい人です。王様ならば大臣たちも愛するけれど末端にいる民をより愛するのが素晴らしい王です。どこまでも上っていき、どこまでも下っていって包んであげられる人が素晴らしいのです。知識や権力で動くのではなく、愛によって動くのです。収拾方法は愛だけです。愛を中心とした場合のみ、永遠に幸福に生きることができるのです。


 愛が創造の根本となり、愛を動機として神は天地を創造されました。それゆえ、すべての存在が相対関係でつくられたのです。中心的愛を人間に与え、万物世界がそれを取り囲んで人間の愛と完全に一つになって生きるのが神の創造理想でした。神の創造理想、神のみ旨は愛の終着点です。


 それでは、愛にはどのような属性があるのでしょうか。互いに一つに統一されるという属性があります。そして共におり、どこへでもついていって同席することができるのです。愛のみが統一することができるので、相続圏が生じます。愛には生命を越えて立つことのできる力があるのです。


 堕落によってアダム、エバ、カイン、アベルが怨讐になりました。夫と妻が、兄弟が、父母と子供が怨讐になりました。個人においても心と体が怨讐になりました。みなばらばらです。サタンの愛を中心としてサタンの血統を受け継いだ人間になってしまいましたから、どれ一つ同化される内容がありません。


 堕落は、自分を中心としてすべてのことを推し量ることから始まりました。自我自覚を先にしました。


 しかし、完成するということは、自我完成です。自我完成は自分を知ることによってではなく、神を知ることによってなされるのです。神を知ることによって高い位置に行くことができるのです。


 神のみ意の「意」は、「立つ」という字に「曰く」「心」と書きます。み言に心を立てるのです。心に真なるみ言が愛です。人間は万物の中で最も尊いと言いますが、それは愛、縦的な愛を中心としてのみ言える言葉です。ゆえに、神を知るようになるのです。


 救いの摂理は復帰摂理、復帰摂理は再創造摂理、再創造摂理は、創造理想を再現させる道です。つまり愛を再現させるのです。


 それゆえ、創造理想完成は四位基台完成であるというのです。愛は上下関係や左右関係の秩序を破ったりしません。愛は無限です。愛は聖人の道理です。それは、世界を越え、天理を抱きます。


神のみ言聞く祈祷


 堕落しなければアダムは神と一つになっていました。神を中心として、心で一つになるのです。祈祷は心と対話することです。天の指導に従って心は、その人の思いや行動を指示してくれます。
 心の言葉を聞くことのできない人は神の言葉を聞くことができません。仏教などで禅を組んだりするのは心の言葉を聞くための修行なのです。


 心は縦的な「私」、体は横的な「私」です。縦的な私のとどまり得る所が、神と「私」の関係に愛が連結される道です。そこを占領できるただ一つのものが真の愛です。


 真の愛でのみ垂直が生じ、神様の愛がてっぺんから直線的に下ってきて、人間と関係を結ぶのです。また相対同士が愛する時は、直線的に水平に行くので、垂直に下りてくる神の愛に対して九十角度を取ります。縦的な私と横的な私は、自然に九十角度を成します。


 ところが、縦はそのまま垂直に下りていきますが、堕落によってこの角度が狂ってしまい、生涯そこから抜け出すことができなくなりました。


 心の命に従うべき体が逆に心を従えましたから、体を犠牲にさせて心の命令に従わせるための生活が宗教なのです。無理矢理に合わせようとするために苦しい生活になります。


 人類始祖が完全に縦的な神様の愛に結ばれ、完成して、正しい姿勢で四方に通ずる時、天地の運勢が回っていきます。「正」という字は「止」の上に「一」です。天を上にいただいて侍らずしてはとどまることができないし、とどまるとしても正しくはないのです。また「天」は「二人の人」、「仁」も二人です。ですから良いものは、みな二人です。


「善」は「羊」に刃を受ける中に「口」と書きます。それは犠牲になるということです。「自ら犠牲になりなさい」と語る人が善です。「義」も「羊」に「我」と書きます。羊のような人になれ、自分を犠牲にさせて生きよというのです。


 アダムは愛の主人です。実体存在として、縦的な無形の神の愛を受け継ぐ中心的存在です。神と九十角度、中央で会って神と一体となるならば、完成します。


 修養が必要です。活動だけではいけません。活動してはとどまり、そして上下、左右、つまり夫と妻、父と子などの関係世界を一つにする生活をしなければならないのです。そうすることによって本質的基準で縦的軸の位置にとどまることができるのです。


 誰でも認める善の基準が九十角度を中心とした愛の結束点です。アダム・エバが成熟して愛で束ねられた種になり、そこから人類が生まれたなら、真の父母の血統で生まれた子女となるのです。縦的な私の心に神が臨在して縦的な真の愛の父となるのです。


 そのためには心を合わせて祈祷しなければなりません。すると自分の生活にも雑念が生じません。


 そのようにして個人、夫婦、家庭、氏族、民族、国家、世界が一つになっていき、統一的な世界が形成されるのです。この九十角度の点は、どの角度にも合います。互いにためにするところで愛を中心として一つになるのです。


愛を説く宗教は永遠


 神の嘆きは、愛を横的に展開する個人基盤がないということです。堕落によって破壊されてしまったからです。それでメシヤを送って、歴史をかけて個人を収拾し、家庭、氏族、民族、国家、世界を収拾しようとしてこられました。メシヤが来られる時一時に収拾されるように、世界的文化の中心として準備してきたのが宗教圏です。


 宗教中の真の宗教が何か、真理中の中央的真理が何なのかを知らなければなりません。真理中の真理は愛の真理です。神は愛の真理の主人です。愛ゆえにお金が必要であり、愛ゆえに知識が、愛ゆえに権力が必要なのです。愛を中心とした権力は永遠です。父母の愛に満ちた行為は永遠に心の中から去りません。愛を通じたすべてのことは永遠に行くのです。


 宗教中の偉大な宗教は法を教えるものでしょうか。違います。法的宗教は真理を教えてくれません。真理は永遠不変ですが、法は変わります。人間は法ではなく真理で生きるものです。法の世界から真理の世界に移動し、真理の世界から愛の世界へ移動するのです。法や真理を論議する宗教よりも、愛を論議する宗教が真なる宗教です。


 ですから、ヨルダン川の川辺の小さい国でたった三年間教え、反逆者として追われて亡くなったイエス様の思想は、世界を支配するようになりました。イエス様の思想はどのようなものだったでしょうか。イエス様は、神を父、自分をひとり子と語りました。「私は神のひとり子である」というのは偉大な宣布です。そして「私は新郎である」と言いました。偉大な宣布です。


 真の愛を中心として縦的な父母としていまし給うお方が神です。イエス様は永遠の愛をもってひとり子だと宣言されたのです。メシヤはひとり子として来て、ひとり娘(独生女)を探し求めなければなりません。アダムとしてエバを探し求め、真の家庭を築かなければなりませんでした。しかしイエス様が死んでしまわれたので、クリスチャンは新婦の立場に立って二〇〇〇年間、イエス様に侍ってきたのです。


 二性性相の神から分かれたアダムとエバが神の愛で一つになることによって、人間が神の愛の強さを知る時に、神は無限の愛の刺激を感じられるのです。人間は相対に会う時、神の内性的愛を感じ神の愛を理解するようになります。神が縦的真の愛の父であり、完成したアダムとエバは横的な真の愛の父母です。そこに子女が生まれて、家庭、氏族、民族、国家へと大きくなって、天国になるのです。


 それが堕落してサタンの血を受け継いでしまい、父の愛、夫の愛、兄の愛を失いました。つまり三代の愛を失ったのです。蕩減復帰の原則においては、失ってしまったものを探し求め、原則にぴったり合う位置にもっていかなければなりません。それが救いです。


 個人において心と体が神の愛を中心として固定されると、神も心も喜びます。これが家庭的、氏族的、民族的、国家的に縦的な神の愛を中心としてつくり直さなければならないのです。完全なプラスが現れる時、完全なマイナスが生じるのは天地の道理です。天国は愛を中心とした能動的直感の世界です。直感の世界であると同時に実践の世界です。


 キリスト教は再臨主のためにありました。再臨主が現れることによって初めて、二〇〇〇年のキリスト教の全責任が果たされるのです。再臨主、それは真の父母です。真の父母が被造世界を収拾し神の前にささげようとする時、サタンが反対してきます。しかし、本心に満ちた心をもつならば、神から来るのかサタンから来るのかすぐに分かります。説明は必要ありません。


 今年私は「韓国統一」を語りました。既にその囲いをつくっているので問題ありません。開放の門は既に開けてあります。世界に摂理的転換式を発表し、八八年十月三日、世界統一国開天日を宣布しました。ここから回っていくのです。神が統一教会を保護してくださっています。


新生は真の父母から


 きょう、氏族的メシヤになれという話をしています。世界を救うのがメシヤですから、氏族的メシヤとは氏族を救うためのメシヤです。全氏族の内的な中心、代表者にならなければなりません。韓国統一は、氏族が連合して南北統一するためです。


 先生の使命は、縦的な神の前に、横的九十角度を成せなかった愛の父母をつくることです。縦横の角度を垂直に合わせなければなりません。縦的な神が横的に臨在すれば、縦的基準は骨になり横的基準は肉になります。そのように人間は神から骨を受けました。骨は私たちの良心です。心と体が九十角度で連結されるのです。アダムとエバが横的な真の父母になれば世界的になります。世界的基準は一つですから、自動的に天国になります。


 人間がこのようになった歴史的な根を知らなければなりません。それでまず根本を明らかにし、神を明らかにし、サタンを明らかにしました。天倫の秘密を解き明かしました。


 生命に対して愛が先立ちます。父母の愛の調和でその血肉を受け継いで人間は生まれました。血統の根本は愛です。愛を中心として生命が生まれるのです。堕落したので、真の父母に接ぎ木されて新生しなければ実を結ぶことができず、天国には行けません。また、サタンとなった天使長を愛して原則的な道を行ってこそ、天国に入ることができるのです。これらのことをすべて明らかにしました。私は死ぬまで自分の責任を果たします。


 私は自分のためにではなく、人を幸福にするためにだけ生きてきました。私の母は私を大変かわいがり、よく餅を作ってくれました。ところが私は、町内のかわいそうな子供たちに、それをみな分けてあげたものでした。たくさん作っておいても一日のうちになくなってしまうのです。幼い時からこのような性格でした。


 興南では一番貴重なのは食べ物でしたが、それらも他の囚人に分けてあげました。しかし、食料を差し入れてくれた人の恩を私は忘れることができません。


 ダンベリーでもアメリカを生かすために「ワシントン・タイムズ」や「インサイト」「ワールド・アンド・アイ」等の新聞や雑誌を次々に創刊しました。それが今アメリカの指導者層の指針となっています。


 キリスト教を覚醒させるために七〇〇〇名の聖職者らを招き、神の摂理を説き明かしました。それでキリスト教指導者たちが一つになったのです。右側の強盗と左側の強盗が争わずに、統一が起こったので、今後、共産世界と民主世界の統一が起こるのです。


迫害越えて伝統樹立


 キリスト教が第二次大戦の時に先生と一つになったならば、世界は統一されたはずです。一九五二年までに七年間で世界を統合していました。しかしそのみ旨が失敗してしまったので、私は韓国史四三〇〇年に四十三年を合わせて蕩減復帰したのです。


 統一教会は激戦を超えて、生き残ってきました。私は蕩減条件をすべて立てました。そして、父母の日、子女の日、万物の日を制定し、一九六〇年に結婚し、六八年の一月一日に神の日を制定したので、家庭が自然に移動することができるのです。さらに七〇年からは四三〇家庭を開拓伝道に送り出しました。今や二万を越える祝福家庭が世界各地で歩んでいます。


 私は、刃を持って打ちかかってくるサタンを涙で心配し、愛し、尽くしてきました。一方、私の子供たちは大人になって分別がつくようになるまでは、両親は統一教会の両親であって自分の父母ではないと思っていました。


 それはどうしてでしょうか。サタンを愛してからこそ、自分の息子、娘を愛するという蕩減復帰の原則があるからです。神もサタンを愛さなければ、子女を愛することはできません。


 私は本物の位置で伝統を残そうとしました。誰よりも神様の前に精誠を尽くし、だれよりも祈祷し、だれよりも国を愛しました。今や故郷に帰って愛することができる時代になりました。


 世界中から打たれましたが、それが私に福を与えるのです。迫害はそのまま、サタン世界から福を伝授させる方法です。神は打たれて奪ってくる作戦をし、サタンは打って失ってしまうのです。怨讐を愛しなさい。怨讐を愛さずしては、天国に入れません。「共に神様に侍り、天の宮殿で一緒に住もう」と愛しながら入っていくのです。それが原理です。


 既に、氏族的のみならず国家的、世界的メシヤの責任を果たしました。皆さんは氏族的メシヤになると誓いました。虎の子は虎にならなければなりません。猫の子になってはいけません。


 先生は怨讐を愛しました。さらに怨讐の国を愛しました。韓国を愛し、日本を愛し、アメリカを愛し、世界を愛しました。全世界の福を受ける条件を立てて、それを大韓民国に全部植えました。韓国を中心として連結するのです。韓国に七〇〇〇名の牧師たちが来、西欧社会から七〇〇〇名が入ってくるのです。私のあとに神様がついてきます。
 今年「韓国統一」を宣布しました。そして一月三日、午後二時三十分、氏族的メシヤを宣布しました。


 皆さんは氏族的メシヤとして立ち、真の父母に縦的に侍り、横的な父母つまり自分の父母に侍らなければなりません。自分の氏族に侍り、自分の一族に侍らなければなりません。


 氏族の中に位置を確保しなければなりません。十二名以上、十支派以上を備え、八十四名、一二四戸以上の基盤を築かなければなりません。世界中に出ていき、いかなる反対や迫害があっても神の名に従って上へ戻っていきましょう。


 先生は、国を生かすために我が子同然の統一教会の皆さんに苦労させています。それが原理的だからです。神は今まで神側のアベルを犠牲にしてサタン世界を愛してこられました。そうしてこそ、サタン世界の讒訴を免かれることができるのです。


 こうして天国の出帆が始まります。まずカインの国を愛して故郷に戻り、故郷をカイン以上に愛していく時が来ました。大韓民国に戻ってきて「韓国統一」を宣言したのです。


 今からは、正義の剣を抜きなさい。国のために闘うならば、みなさんの家族、親戚はみな支持します。韓国統一される前にみな統一しなければなりません。行動しなければなりません。国中から悪口を言われ追い出されても、宣布してしまわなければなりません。


 皆さんは故郷に帰り氏族を教育しなければなりません。ラッパを吹きならしなさい。先生が既に道をみな築きました。ここから、統一教会の名をもって前進しましょう。


 統一教会が迫害されてきたのは、これまで長子復帰時代だったからです。長子を復帰する苦労を思うならば、皆さんは父母を復帰することにおいてもっと苦労しなければなりません。


 旧約時代は、万物を犠牲にして息子を迎え、新約時代は息子を犠牲にさせて父母を迎える時代でした。再臨時代は、父母を犠牲にして神をお迎えするための時代です。そのために真の父母は、十字架の道を行くのです。
 全世界に氏族的基盤をつくって配置しましたので、サタン世界は自動的に壊れていきます。統一教会は神の真の愛を中心としますので、怨讐がありません。長成期完成級です。既に完成期完成級です。完全な解放時代を迎えています。


 反対のない位置に立っており、氏族復帰は問題ありません。氏族復帰には氏族的メシヤが必要です。それによって民族復帰が自動的に始まるのです。氏族復帰さえすれば、国家も世界もここから解決されるのです。


神臨在する氏族に


 氏族を中心としてイエス様の解怨成事を行うならば、歴史的な二〇〇〇年の恨み、歴史的な神の恨みを解放する起源が生じます。真の父母を通して血統が転換されるのです。氏族的メシヤとしてあなたたちの家庭が行くならば、そこに皆さんの本郷の地が生じます。イエス様の本郷の地が生ずることになるです。
 韓国統一を神が協助してくださいます。先生が神と一つになってサタン個人を愛し、家庭を愛し、氏族、民族、世界、霊界、地獄までも愛したのです。ですから先生の行く所はすべて天国です。サタンは讒訴できません。み言と一つになる時、サタンは皆さんから完全に離れます。


 先生は皆さんのように故郷をもてませんでした。青春時代に自分の父母、兄弟、一族を率いていく自由な環境をもてませんでした。自分の家族にさえみ言を語ってあげられなかったのです。


 私の兄は立派な人でした。自分の弟が歴史始まって以来の初めての偉大な弟であることを知っていました。もし兄にみ言を語ることができるならば、自動的にカイン復帰がされたのです。しかし私を信頼していた兄に対して、み言を一言も語ることはできませんでした。


 私は世界を振動させながら、民族、国境を越えて導き、天国の民を新生するために苦労の限りを経験し、生涯をささげてきました。しかし、自分の家族のためには何もすることができず、機会をすべて逃してしまいました。キリスト教が反対し、韓国が責任を果たせなかったことによって……。


 ですから、皆さんが故郷に入るその栄光と価値は、先生よりましな位置です。そこで皆さんは、父母を愛する真実の涙を流して同化させ、愛で一族に侍り、祖先にならなければなりません。これが天地開闢の時となります。先生が家庭においてみ言を語れなかったすべてのことを、先生を代身した皆さんがその父母のために精誠を尽くすことをもって蕩減するのです。このようにさえなるならば、北韓統一は自動的にできるのです。


 その運動が韓国で展開される時、完全統一が起こります。氏族的メシヤの行動は、イエス様以上に、そして先生以上に、です。天の血統を受け継いだ伝統は、何よりも尊いのです。再び堕落させることはできません。先生以上の愛の心情で故郷を愛さなければ、北韓を自然屈伏させることはできません。


 問題は統一教会自身です。皆さんは家長になって、一つの国を探し求める大運動を展開するのです。それが韓国統一です。南北統一ではなく、韓国統一です。韓国統一をして、完全に統一教会とこの国が愛で和して完全な主体が生ずるならば、北韓は自動的に消化されるのです。


 カイン・アベルが一つになるところには、神が臨在するようになっています。氏族が一つになる時、神はいつでも訪ねていくことができます。


 アダム時代、イエス時代、再臨時代のすべてのものを一代で収拾し、家庭基盤を確立しました。この基盤の上に氏族圏を準備したのです。


 こうして統一世界は展開され、地上天国が出帆するのです。先生を中心として縦的な基準を代表した権限が霊界や地上界全部に樹立され、基盤が築かれました。既に世界基盤まで築いています。ですから、この圏内にはサタンは侵犯できません。皆さんが努力さえするならば、一挙に拡大していくのです。


 皆さんが帰郷する時には、先生が築いた道があるので、迫害なしにいつでも戻っていくことができるのです。そうすることによって、蕩減復帰の恨みに満ちた歴史を無難に撃破し、家庭に位置を確保し、天に侍り、サタンが迫害することのできない解放時代へ前進するのです。氏族的メシヤの責任を果たしていく時、解放が始まるのです。