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文鮮明先生ご夫妻 北朝鮮訪問 8日間の奇跡(No.5/6)



真の父母様 北朝鮮訪問NO5




人類の涙をぬぐう平和の母
人類の涙をぬぐう平和の母
光言社
平和を愛する世界人として―文鮮明自叙伝
平和を愛する世界人として―文鮮明自叙伝
創芸社


平和を愛する世界人として -

第六章 愛は統一を導く-冷戦終焉·宗教融和


4. 朝鮮半島の統一がすなわち世界の統一



ゴルバチョフ大統領との会談を終えてクレムリン宮殿を出てくる際、私は随行していた朴普煕に特別な指示を一つしました。


一九九一年を越える前に金日成主席と会わなければならない。時間がない!ソ連はもう一、二年のうちに終わってしまう。問題は韓国だ。何としてでも金日成主席と会い、朝鮮半島で戦争が起きるのを防がなければならない」


ソ連が崩壊すれば全世界の共産国家も一緒に壊滅するので、急いでいました。そうなれば、窮地に追い込まれた北朝鮮がどのような挑発をしてくるか分かりません。その上、北朝鮮は核兵器に強く執着していたので、なおさら不安でした。北朝鮮との戦争を防こうとすれば、北朝鮮と話ができるチャンネルがなければならなかったのですが、その時まで私たちにはそのようなものがありませんでした。何が何でも金日成主席と会い、核兵器に対する野望を捨てさせ、韓国を先制攻撃しないという約束を取り付けなければなりませんでした。


朝鮮半島は世界情勢の縮図です。朝鮮半島で血を流せば世界が血を流します。朝鮮半島が和解すれば世界が和解し、朝鮮半島が統一されれば世界が統一されるのです。ところが、一九八〇年代後半から、北朝鮮は核保有国家になろうとあがいていました。これに対して欧米諸国は、先制攻撃をすると高飛車な態度で脅していました。このまま極限まで突き進めば、北朝鮮がどんな強硬手段をを講じるか分かりませんでした。私は、どうしても北朝鮮と対話のチャンネルを構築しなければならないと考えたのです。


しかし、事はそう簡単ではありませんでした。北朝鮮と接触していた朴普煕に対して、北朝鮮政府の金達鉱副総理は、「北朝鮮の人民は、今まで文総裁を国際的な勝共運動の魁首と思ってきました。それなのに、どうして保守・反共の総帥を歓迎できますか。これは到底想像外のことに思えます」と強く釘を刺してきたのです。しかし、朴普煕はあきらめませんでした。


「アメリカのニクソン大統領は徹底した保守・反共主義者です。その彼が中国を訪問して、毛沢東主席と会談を行い、米中の国交が正常化しました。ここから利得を得たのは中国です。侵略者の烙印を押されていた中国が、一躍世界舞台の表面に浮き上がってきたのです。北朝鮮が国際社会で信用を得ようとすれば、文総裁のような保守・反共主義者を友人にしなければなりません」と北朝鮮を説得しました。


一九九一年十一月三十日、ついに金日成主席が私たち夫婦を北朝鮮に招待しました。当時、ハワイに滞在していた私たちは、急遽、北京に飛びました。中国政府が用意した北京空港の貴賓室でしばらく待っていると、北朝鮮の代表が現れ、正式招待状を出してきました。


招待状には、平壌の官印が鮮明に押されていました。


「朝鮮民主主義人民共和国は、統一教会の教主・文鮮明師と令夫人、そして随行員一同を共和国に招請します。共和国は在北期間中、その身元を保証いたします。

一九九一年十一月三十日

「朝鮮民主主義人民共和国政務院副総理金達鉱」



私たち一行は、金日成主席が用意した朝鮮民航 特別機JS215に乗って平壌に向かいました。これは、極めて異例で、特別な待遇でした。


特別機は黄海を渡って新義州方面に向かい、そこから故郷の定州上空を通過して平壌に行きました。故郷が目に入るように配慮してくれたのですが、夕焼けに赤く染まった故郷の山河を見下ろすと、胸が高鳴って心の奥底がしびれるようでした。あれが本当に私の故郷なのかと思うと、すぐにでも飛び降りて山や野原を走ってみたいと思いました。


平壌の順安空港には、四十六年前に別れた家族が出てきていました。花のように美しかった妹は初老のお婆さんになり、私の手を握って顔をしわくちゃにして泣きました。七十歳を超えた姉も、私の肩をつかんで激しく泣き、涙を流しましたが、私は最後まで泣きませんでした。


「ここでそのようにしないでください。家族に会うことも大切ですが、私は神様の仕事をするために来たのです。そのようにしないで、気持ちをしっかり持ってください」


四十数年ぶりに出会った姉妹たちを抱きかかえて泣くことができない私の心の中では、涙が滝のように流れていました。しかし、私は何とか心を抑えて宿所に向かいました。


翌日、いつものとおり早朝に起きて祈りました。もし迎賓館に監視設備があったなら、朝鮮半島の統一のために泣く私の祈りがすべて記録されているでしょう。その日私たちは、平壌市内を回りました。平壌は主体思想の赤い標語で完全に武装されていました。


四日目は、特別機に乗って金剛山見物に行きました。九龍淵の滝は真冬でも力強く水を降り注いでいました。金剛山の名勝地を隅々まで見て回った後、六日目は、ヘリコプターに乗って故郷に行きました。夢の中でも慕わしくて一足飛びに駆け寄ったその家が、いま目の前に現れました。夢か現かと思って、しばらく家の前で望夫石 (中国湖北省武昌の北の山にある岩。昔、貞女が戦争に出かける夫をこの山で見送り、そのまま岩になったと伝えられている) のように立った後、家の中に入っていきました。本来は、母屋と倉庫、離れと家畜小屋が互いに向かい合った四角形の家でしたが、今は母屋だけが残っていました。私が生まれた奥の間に入っていき、あぐらをかいて座ってみました。このようなとき、昔の記憶がきのうのことのように鮮明に蘇ります。奥の小さな扉を開いて裏庭を見てみると、昔、私が登って遊んでいた栗の木は、すでに切られてなくなっていました。


「うちの小さな目、おなかは空いていないのか?」と母親が私を優しく呼ぶようでした。母の木綿のチマ(スカート)がさっと私の目の前を通り過ぎていきました。


故郷で両親の墓を訪ねて花を捧げました。興南の監獄に私を訪ねてきて悲しみの涙を流した母の姿が、私が母を見た最後の姿でした。母の墓の上を昨晩降った雪が軽く覆っていました。私は白い雪を手の平で払い、母の墓に生えた芝をしばらく撫でました。母の荒れた手の甲のように、墓の上の冬の芝はざらざらしていました。


5. 金日成主席との出会い


私が本来、北朝鮮に行こうとした理由は、故郷に行きたかったからでも金剛山を見物したかったからでもありません。金日成主席と会い、祖国の将来について討議し、訴えるために行ったのです。ところが、六日間が過ぎても、金日成主席と会わせるという話は一つもありませんでした。


十二月五日、故郷を巡ってから、ヘリコプターに乗って順安空港に戻ってくると、予告もなく金達鉉副総理が出迎えに来ていました。
「あす、偉大なる首領、金日成同志が文総裁にお目にかかるそうです。その場所が興南にある麻田主席公館ですので、今すぐ特別機に乗って興南に出発していただきます」


「主席公館は何箇所かあると言っていたのに、よりによって興南なのか?」行く途中で「興南窒素肥料工場」と書かれた大きな看板を見たので、以前に監獄生活をしていた記憶が蘇り、本当に複雑な気分になりました。


私たちはそこの招待所で一泊し、翌朝、金日成主席に会いにいきました。


麻田主席公館に入ると、金日成主席が先に出てきて待っていました。私たちはどちらからともなくお互いに抱き合いました。私は徹底した反共主義者であり、金主席は共産党(朝鮮労働党)の頭目ですが、二人の出会いに理念や信仰は重要なものではありませんでした。私たちは、長い間生き別れになっていた兄弟と同じでした。それがまさに血が通う民族の力です。私はいきなり金日成主席に言いました。


「金主席の温かい配慮で家族と会うことができました。しかし、今も祖国には、生死さえも分からないまま、年老いて死んでいく一千万人の離散家族がいます。離散家族が相まみえることができるように対面の恩恵を与えてください」


私は故郷を見てきた話を付け加えて、同族愛に訴えました。故郷の言葉がすらすら通じるので、一層気持ちが安らかでした。すると金主席も、「同感です。来年からは南北の別れた同胞がお互いに家族に会う運動を始めましょう」と、春の雪が解けるようにすぐに応じてくれました。


故郷の話題で話の糸口を開いた私は、すぐに核兵器に関する意見を述べました。朝鮮半島の非核化宣言に合意し、国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印するよう丁重な態度で説得に努めました。


すると金主席は、


「文総裁、少し考えてみてください。私が誰かを殺そうと思って核爆弾を造りますか?同族を殺しますか?私がそのような人間に見えますか?核が平和目的にのみ使われなければならないということには私も同意します。文総裁の話を心して聞いたので、うまくいくでしょう」


と気持ちよく答えました。


当時は、北朝鮮の核施設問題で南北関係が思わしくなく、とても慎重に提案したのですが、晴れ晴れとした答えに、その場にいたすべての関係者が驚くほどでした。話がよく通じた私たちは、食堂に場所を移して、早めの昼食をとりました。


「文総裁は『冷凍ジャガイモそば』をご存じですか。私が白頭山でパルチザン活動をしていた時代に本当によく食べた料理です。召し上がってみてください」


「知っていますとも。私の故郷でもよく食べていた料理です」


と、私は笑顔で答えました。


「はは、文総裁の故郷では珍味として召し上がったのでしょう。私は生きるために食べました。日本の警察が白頭山の頂上までしらみつぶしに探し回るので、一匙のご飯も落ち着いて食べることができませんでした。白頭山の頂上で、ジャガイモ以外に食べる物があるでしょうか?ジャガイモを煮て食べようとしたときに、日本の警察が追いかけてくれば、ジャガイモを土の中に埋めておいて逃げるのです。しばらく経ってそこに戻ってくると、よほど寒いのか、ジャガイモが土の中でもこちこちに凍ってしまいました。仕方なく、凍ったジャガイモを掘り出し、溶かして粉にしたあと、そばにして食べました」


「主席は『冷凍ジャガイモそば』の専門家ですね」


「そうです。これを豆乳に混ぜて食べても美味しいのですが、ゴマのスープに混ぜて食べてもとても美味しいです。消化も良いし、ジャガイモに粘り気があっておなかもいっぱいになります。ああ、それから文総裁。『冷凍ジャガイモそば』は、このように威鏡道式に芥子菜のキムチをのせて召し上がるのが珍味です。一度試してみてください」


私は金主席が勧めるとおりに、「冷凍ジャガイモそば」に芥子菜のキムチをのせて食べました。香ばしいそばと辛いキムチがよく合い、おなかがすっきりしました。


「世の中に山海の珍味はたくさんありますが、私はそのようなものはすべて必要ありません。故郷で食べていたジャガイモ餅やトウモロコシ、サツマイモより美味しいものはありません」


「主席と私は、味の好みまでよく合いますね。やはり故郷の人どうしで会うのはうれしいことです」


「故郷を見て回ったそうですが、どうでしたか」


「感慨無量です。私が暮らしていた家が残っていて、しばらく昔のことを思い出しながら、奥の間に座ってみました。今にも母が私の名前を呼びそうな気がして、胸がじんとしました」


「母君……?」


「すでに亡くなったそうです」


「そうでしたか。ですから、早く統一されなければならないということですね。私が聞いたところによると、文総裁は相当ないたずらっ子だったそうですが、故郷に行って少し遊ばれましたか?」


金主席の話に、食卓に座っていた人たちがわははと笑いました。


「木にも登って、魚も捕まえにいかないといけないのですが、金主席が待っていらっしゃるということで急いでこちらに来たので、次にまた呼んでくださらなければなりません」


「そうですね。是非そうしましょう。ところで、文総裁は狩りをされますか。私は狩りがとても好きです。白頭山で熊狩りをしてみれば、間違いなく魅了されますよ。熊は体が大きいので愚鈍に見えますが、実際はとても利口者です。ある時、熊と一対一で出くわしたのですが、熊が私を見てぴくりとも動かないのです。熊を避けて逃げ出せばどうなるかお分かりですよね。ですから、私も熊を睨みながらじっとしていました。一時間、二時間と時間がどんどん過ぎていくのですが、熊は依然として私を睨んでいます。白頭山の寒さがどれほど有名ですか?熊に食べられて死ぬ前に凍え死にしそうな状況です」


「いや、それでどうなったのですか」


「ははは、いま文総裁の前に座っているのは熊ですか、人ですか?それが答えですね」


私が大声で笑うと、金主席は不意に「文総裁、次にいらっしゃったら、一度一緒に白頭山に狩りに行きましょう」と言いました。それで私もすぐに「主席は釣りもお好きでしょう?アラスカのコディアック島にハリバットという熊くらい大きなヒラメがいます。一度それを釣りに行きましょう」と続けました。


「熊のように大きなヒラメですか。それなら当然行かなければなりませんね」


狩りでも釣りでも、私たちは互いに趣味が通じました。すると突然話すことが増え、久しぶりに会った旧友が互いに過去の話をするかのように、先になったり後になったりしながら話をしました。私たちの笑い声が食堂の中に大きく響き渡りました。


私は金剛山の話も切り出しました。「金剛山に行ってみると本当に名山ですね。私たち民族の誇らしい観光地として大きく開発しなければなりません」「金剛山は統一祖国の資産です。それで誰も手を出せないようにしました。間違った開発をして名山を台無しにすることもあるからです。文総裁のように国際的な眼識を持った方が開発を担ってくださるのなら、信じることができますね」


金主席は、その場で金剛山開発の要請までしてきました。


「主席は私より年が多くていらっしゃるので、お兄様になられますね」と言うと、金主席は「文総裁、私たちはこれから兄と弟として仲良くしていきましょう1」と私の手をしっかりと握りました。


金主席と私は、手をつないで廊下を歩いていき、記念写真を撮って別れました。私を送り出した後、金主席は「文総裁という人は本当に立派だ。一生の問に大勢の人に会ってみたが、あのような人はいなかった。度胸もあり、情にあふれた人だ。親近感を覚えて気分が良くなり、ずっと一緒にいたいと思った。後でまた会いたい。私が死んだ後に南北の間で議論することが生じれば、必ず文総裁を訪ねなさい」と金正日書記に何度も繰り返し伝えたそうですから、お互いにかなり通じ合ったようです。


私が一週間の日程を終えて平壌を出発するやいなや、延亨黙総理を首班とする北朝鮮代表団がソウルにやって来ました。延総理は「朝鮮半島非核化共同宣言」に調印しました (一九九一年十二旦二十一日)。そして、翌年の一月三十日、北朝鮮はIAEAの核査察協定に調印することによって、私との約束をすべて守りました。命がけで平壌に入っていき、まずまずの成果を挙げたのですから、本当にやった甲斐がありました。


6. 地は分けられても民族を分けることはできない


朝鮮半島は地球に唯一つ残った分断国家です。韓民族には朝鮮半島を統一させる責任があります。真っ二つになった祖国をこのまま子孫に譲り渡すことはできません。韓民族が二つに分かれ、互いの父母、兄弟に会えないままで生きるということは、あってはならない悲しみです。南北を分ける三八度線や休戦ラインは人間が引いたものです。地はそのように分けることができますが、民族を分けることはできません。半世紀を超えて分けられていても、私たちがお互いを忘れることができずに慕うのは、一つの民族だからです。


韓民族を「白衣民族」といいます。白衣の白は平和の色です。したがって、韓民族は平和の民族です。日本による占領時代、韓国人と中国人と日本人が満州やシベリアの地で互いに殺し合いをするような中でも、韓国人は刃物を持ち歩きませんでした。日本人と中国人は全員刃物を持ち歩きましたが、韓国の人たちは火打ち石を持ち歩きました。凍りついた満州とシベリアの地で火を焚くことは、命を守ることです。韓民族はそのような人たちです。天を恭敬し、道義を大切にし、平和を愛する人たちです。


日本植民地時代と朝鮮戦争を経験しながら、韓民族は本当にたくさんの血を流しました。しかし、国が統一もされず、平和の国権が成し遂げられてもいません。国土が真っ二つに分かれ、一方は共産主義の暗い世界になりました。


私たちが民族の主権を取り戻そうとすれば、必ず統一を成し遂げなければなりません。今のように南北が分かれていては平和を得ることはできません。私たちがまず平和統一を成し遂げ、完全に主権を取り戻してこそ、世界平和を成し遂げることができるのです。韓民族を「倍達民族」と称するように、韓民族は世界に平和を伝達する配達人として生まれたのです(「倍達」は韓国の古典的な称。


「倍達」と「配達」はハングルでは共に「ペダル」と発音するので、掛けて表現している)。すべての物には名前があり、名前にはそれぞれ生まれつき持っている意味があります。白衣民族の白い服は昼も夜もよく目立ちます。暗い夜中に標識にできる色は白色だけです。韓民族は、夜も昼も世界平和を伝達して回る運命を持って生まれたのです。


南と北の間には休戦ラインが横たわっていますが、それは大きな問題ではありません。私たちが休戦ラインを除去すれば、その次にはロシアと中国というもっと大きな休戦ラインが横たわっています。韓民族が完全な平和を得ようとすれば、ロシアと中国との休戦ラインまで飛び越えなければなりません。大変なことですが、不可能ではありません。大切なのは心の持ち方です。


私は、汗を流し、血を流すとき、残らずすべて流すのがよいと考える人です。心の中の残りかすまで、ありったけのものをすべて流して送り出してこそ、未練が残らずきれいに整理されます。苦難も同じです。苦難に最後まで打ち勝ち、きれいに清算してこそ、苦難が終わるのです。何であっても、完全に清算すれば、また戻ってくるものです。そのように、凄絶な苦痛なしには民族の完全な主権を取り戻すことはできません。


今でこそ皆平和統一を語りますが、私が以前、平和統一を主張していた頃は、反共法と国家保安法を恐れて、平和統一という言葉を使うことさえためらわれる時代でした。私はその当時から、絶えず平和統一を主張してきました。今も誰かが「どうすれば朝鮮半島は統一されますか」と尋ねれば、私の答えはいつも同じです。


「韓国の人が韓国よりもっと北朝鮮を愛し、北朝鮮の人が北朝鮮よりもっと韓国を愛すれば、きょうにでも朝鮮半島は統一されます」


一九九一年に命がけで北朝鮮の地に入っていき、金日成主席と会ったのも、すべてそのような愛の下地があったために可能なことでした。その時私は、金日成主席と南北離散家族再会、南北経済協力、金剛山開発、朝鮮半島非核化、南北首脳会談推進などに関して合意しました。


反共主義者が共産国家に入っていって南北統一の入り口を開くとは誰も思いませんでしたが、私は世界をあっと驚かせました。


私は金日成主席に会う前 (十二月二日)、平壌の万寿台議事堂 (日本の国会議事堂に相当) において、党・政府要人との会談の席で二時間にわたって演説を行いました。その日、私が北朝鮮の指導者たちを相手に強調して語ったことは、「愛による南北統一方案」です。金日成主義で武装した北朝鮮の指導者たちを座らせておいて、私のやり方で語ったのです。


「南北は必ず統一されなければなりませんが、銃剣によっては一つになることはできません。南北統一は武力では成し遂げられません。朝鮮戦争も失敗したのに、また武力で何とかしようと考えるのは愚かなことです。皆さんが主張する主体思想では南北を統一することはできないのです。それでは、何をもって統一されるのでしょうか。この世の中は、人間の力だけで動くのではありません。神様がいらっしゃるので、絶対に人間の力だけではどうすることもできないのです。戦争のような悪なることに対しても、神様は摂理されます。ですから、人間が主体となった主体思想では南北を統一することはできません。統一された祖国をつくるのは『神主義』によってのみ可能なのです。


神様が守ってくださる私たちに統一の時が近づいてきています。統一は、わが民族の宿命であり、私たちの時代に必ず解決すべき課題です。私たちの時代に祖国統一の聖業を成し遂げることができなければ、永遠に先祖と子孫の前に頭を上げることができないでしょう。


『神主義』とは何でしょうか?神様の完全な愛を実践することです。南北を統一するのは、左翼でもできず、右翼でもできません。その二つの思想を調和させることのできる『頭翼思想』があってこそ可能です。


愛の道を行こうとすれば、全世界の前で南侵した事実を謝罪しなければなりません!北朝鮮が韓国に送った定住スパイが二万人もいることを知っています。彼らに、今すぐ自首せよと司令を出してください。そうすれば、私が彼らの思想を正す教育をして、南北の平和統一に寄与する愛国者にします」


私は議事堂のテーブルに拳を打ち下ろし、強烈に語りました。すると、私の演説を聞いていた北朝鮮側の尹基福・朝鮮海外同胞援護委員会委員長 (祖国平和統一委員会副委員長) と金達鉉副総理の顔がこわばりました。この発言が私にどのような危険をもたらすか分かりませんでしたが、言うべきことは言わなければなりませんでした。単に彼らを刺激するためではなく、その日の私の演説が金日成主席と金正日書記にすぐ報告されるという事実を、あまりにもよく知っていたので、私たちの志を伝達しようと、わざとそのように話しました。


演説が終わるやいなや、随行員たちの顔が真っ青になりました。北朝鮮側関係者の数人は、よくもあんな話ができたものだと真顔で抗議してきました。「演説の内容があまりにも強烈で、彼らの雰囲気があまり良くないです」と随行員たちが心配しました。しかし、私は断固として言いました。


「私がなぜここに来たのか。北朝鮮の地を見物するために来たのではない。ここまで来て言うべきことを言わずにいれば天罰を受ける。たとえきょうの演説が原因で金主席と会えずに追い出されたとしても、言うべきことは言わなければならない」


その後、一九九四年七月八日、突然金日成主席が死去しました。当時、南北関係は最悪の局面でした。韓国の地にパトリオットミサイルの配備が計画され、アメリカでは寧辺の核施設を破壊しろという強硬派が力を得て、今にも戦争が起きるような状況でした。北朝鮮は一切の外国の弔問客を受け入れないといいましたが、私は兄弟の義を結んだ金主席の死を哀悼するのが当然だと考えました。


私は朴普煕を呼びました。


「今すぐに弔問使節として北朝鮮に行きなさい」


「今、北朝鮮は誰も入れない状況です」


「難しいことは分かっている。しかし、何としても入っていかなければならない。鴨緑江を泳いで渡ってでも、必ず入っていって弔問してきなさい」


朴普煕は北京に飛んでいき、命がけで北朝鮮と連絡を取りました。すると、金正日国防委員会委員長が、「文総裁の弔問使節は例外とし、平壌にお迎えするようにしなさい」と指示を下したのです。平壌に入って弔問を終えた朴普煕に会った金正日国防委員長は、「文鮮明総裁はお元気ですか。このたびはこのように難しい中を来ていただいて、本当にありがとうございます。われわれの偉大なる主席も文総裁の話をいつもしていました」と丁重に挨拶をしました。


一九九四年の朝鮮半島は、いつどこでボンと爆発するか分からない危機的状況でした。まさにその時、金主席と結んだ縁のおかげで朝鮮半島の核危機を無事に越えたことを思えば、その時の弔問は、単なる礼節にとどまるものではなかったのです。


私が金主席との出会いを詳しく紹介するのは、人と人との間の信義について話をするためです。私は祖国の平和統一のために彼に会いました。そして、民族の運命を思う私の信義が通じたために、彼の死後、息子の金正日国防委員長も、私たちが送った弔問使節を受け入れたのです。真実な心で愛を分かち合えば越えられない壁はなく、成就できない夢はありません。


私は北朝鮮を故郷、私の兄弟の家と思って訪ねていきました。何かを得るためではなく、愛の心を与えるために行ったのです。そして、その愛の力が、金日成主席にとどまらず金正日国防委員長にも通じました。その日から今まで、北朝鮮と私たちの問には特別な関係が続き、南北関係が難しくなるたびに、力を尽くして道を開く役割を担っています。すべてのことは、金日成主席と会い、真実な心を通して信頼関係を築いたことがその根本です。信頼はそれほどに大切なのです。


金日成主席に会った後、私たちは北朝鮮で平和自動車工場をはじめ、普通江ホテル、世界平和センターなどを運営しています。平壌市内には、平和自動車の広告塔が八つも建てられています。韓国の大統領が北朝鮮を訪問したとき、北朝鮮当局は平和自動車工場を見せてくれました。大統領と一緒に北朝鮮を訪問していた財界人らは、普通江ホテルに泊まりました。北朝鮮の地で働く食口は、日曜日ごとに世界平和センターに集まって礼拝を捧げます。


これらのことは南北の平和的な交流と統一のための平和活動であって、経済的な利益を得るための事業ではありません。民族的な愛で南北統一に寄与しようとする努力の一環なのです。


7. 銃剣を収めて真の愛で 


韓民族を分けているのは休戦ラインだけではありません。嶺南 (慶尚南北道) と湖南 (全羅南北道) も、見えない線で分かれています。また、日本に住む韓国・朝鮮人は、民団 (在日本大韓民国民団) と朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)に分かれています。民団と朝鮮総連を対立させている理由は、父母が決めた故郷が違うからです。ところが、その故郷がどこなのか、行ったこともない二世、三世まで、父母が引いた線の中に身をすくめて生きています。民団と朝鮮総連に分かれてお互いに言葉も交わさず、学校も違う所に通い、結婚もしません。


二〇〇五年、私は嶺南・湖南の人々と在日韓国・朝鮮人を一つにするために、それまで計画してきたことを実行に移しました。民団から千人、朝鮮総連から千人の同胞をソウルに招待し、嶺南の千人および湖南の千人と姉妹結縁をするようにしました。日本で民団と朝鮮総連の人々が一箇所に集まって南北の平和統一を論議するのはまず不可能です。困難なことをやり遂げた分、嶺南・湖南、民団と朝鮮総連の人々が一箇所に座り、互いに抱擁する光景は、それこそ感激もひとしおでした。その時、ソウルを初めて訪れた朝鮮総連の幹部は、亡くなった父の故郷がどこなのかもはっきり分からないまま、冷戦構造の代理戦争をして生きてきた歳月が本当に残念だと語って、座り込んで激しく泣きました。それまで無為に心の分断線を引いて生きてきたことが、限りなく恥ずかしいとも言いました。


朝鮮半島の分断と対立を正しく理解しようとすれば、過去と現在と未来をまとめて見つめることができなければなりません。すべての事件には根があるものです。朝鮮半島の分断は、善と悪が真っ向から争う善悪闘争の歴史が作り出したものです。朝鮮戦争が起きると、北朝鮮を助けるためにソ連と中国をはじめとする共産圏国家が総動員されました。韓国も同様です。アメリカをはじめとして十六ヵ国から軍隊を派遣し、医療班を派遣した国が五力国、戦争物資を支援してくれた国が二十ヵ国にもなります。同一民族どうしの争いに、これほど多くの国が動員された戦争は他に類例がありません。韓国という小さな国で起きた戦争に、全世界人類が深く関与したのは、朝鮮戦争が共産主義勢力と自由主義勢力の代理戦争だったからです。ある意味では、韓国が世界を代表して善と悪の闘争を熾烈に繰り広げたのです。


アメリカで日刊紙「ワシントン・タイムズ」を創刊してから十年目の一九九二年、アレクサンダー・ヘイグ元米国務長官が記念式典に出席し、祝辞を述べる中で、意外な話を披露しました。


「私は朝鮮戦争に従軍して数々の戦闘に加わりました。指揮官だった私は興南攻撃を任され、命がけの猛攻撃を繰り広げました。文総裁が共産党に捕まって興南監獄におられ、その日の攻撃で解放されたという話を聞いて、感慨無量でした。おそらく、文総裁を救うために私がそこに行ったようです。今は反対に、文総裁がアメリカを救おうとここに来ておられます。『ワシントン・タイムズ』は、左派言論が世論を主導するワシントンDCにあって、バランスの取れた歴史観を持ち、これから行くべき方法を知らせてくれ、アメリカ人の生命を救う新聞です。今回も確認したように、歴史に偶然というものは存在しないのです」


一時、韓国社会では、朝鮮戦争の時に国連軍を総指揮していたマッカーサー将軍の銅像を撤去しようという主張がありました。もし国連軍が参戦していなければ、南北が今のように分断されていなかったというのがその趣旨でした。 私はその話を聞いて、本当に驚きました。そのような主張は、北朝鮮の共産党(朝鮮労働党)の立場でのみできるものです。


このように世界的な犠牲を払ったにもかかわらず、いまだに朝鮮半島の統一は訪れていません。その日がいつ訪れるか分かりませんが、私たちがすでに統一に向かって力強く踏み出しているという事実だけは明白です。統一に向かっていく道には、たくさんの障壁があります。幾重にも折り重なった障壁を一つ一つ崩していかなければなりません。長い時間がかかり、苦労が多くても、鴨緑江を泳いで渡っていく精神で耐え抜けば、統一は必ず訪れます。


一九八九年末、東ヨーロッパの国々の中で最後まで持ちこたえていたルーマニアの共産政権が、流血の民衆蜂起によって打倒されました。政権が崩壊した直後、二十四年間ルーマニアを統治していたニコラエ・チャウシェスクは、彼の妻と共に処刑されました。彼は自分の政策に反対する者たちを無残に虐殺した残忍な独裁者でした。どの国でも、独裁がだんだんと強化されていく理由の一つは、政権を失うと命まで危うくなるという恐怖心です。自分の命が守られるという確信さえあれば、独裁の崩壊がどういう過程を辿るにせよ、あそこまで袋小路に向かって突き進んでいくことはないでしょう。


朝鮮半島でも、どういう方式かは分かりませんが、いずれ遠くない未来に統一を達成するでしょう。したがって、政治家は政治家なりに、経済人は経済人なりに、統一韓国に備えるさまざまな準備をしなければなりません。私はやはり宗教者として、北朝鮮の人たちを愛で抱きかかえ、共に平和を分かち合うことのできる統一韓国を迎えるための準備をおろそかにしないでしょう。


私は、ドイツの統一について長い間研究してきました。一発の銃弾も撃たず、一滴の血も流さずに統一できた理由に関して、当時、統一を主導していた人たちの経験を聞き、私たちに適合する方法を探したのです。その結果、ドイツが平和統一できたのは、東ドイツの権力者に「統一されても命の危険はない」という信頼を植え付けたことが大きな要因だった事実が分かりました。命が保証されていなければ、東ドイツの為政者があれほど簡単に統一の門を開くことはなかったでしょう。


同じように、私は北朝鮮の為政者にも、そうした信頼感を与えなければならないと考えました。以前、日本で出版された北朝鮮を題材にした小説に、チャウシェスクが処刑される映像を数十回も見ながら、「われわれが政権を失えばあのようになる。絶対に政権を失ってはならない」と絶叫する為政者たちの姿が描かれていました。もちろん、日本の小説家の想像ですが、彼らの現実的な悩みに耳を傾け、それを解決してあげてこそ、早く統一が訪れるのです。


朝鮮半島に平和世界を構築することは意外に簡単です。韓国が完全に北朝鮮のために生きるとき、北朝鮮は戦争を仕掛けることなく、朝鮮半島には自然に平和が訪れてきます。親不孝な子供を感動させられる力は、拳でもなく、権力でもなく、心から沸き上がる愛の力です。北朝鮮に米をあげたり、肥料を送ったりすることよりも、愛を与えることのほうが大切です。愛する心で、誠を尽くして、北朝鮮を思って為に生きるときにこそ、北朝鮮も心を開くという事実を忘れてはいけません。