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Re8:異邦人サマリア人氏では神様は「答えられない」「語られない」

サマリア人氏の06/19日記事「 神様は何とおっしゃっていますか」からです。

エルサレム陥落前夜を生きた預言者エレミヤは、神の預言と民の信仰の狭間で苦しんだ人物です。

エレミヤとエゼキエルの時代、バビロン捕囚は神様の中で既に確定していました。

悔い改めて儀式をしたくらいでは、再出発できないところまで信仰が捻じ曲がっていたからです。


とりわけエレミヤを敵対視したのは、職業的祭司と呼ばれる預言者たちです。

彼らの役割は、神の託宣を受けて外交を有利に導き、国を繁栄させることにありました。

どの国と軍事同盟を結ぶかにはじまり、戦争における戦略戦術の策定、貿易による経済政策まで多岐に渡っていました。


家庭連合の食口がそうであるように、職業的祭司も「天運」を何より重視していました。

台頭するバビロンに追い詰められた状況でも、絶対信仰が呼び寄せる天運で撃退できると、信じていたのです。

もちろん彼らは、目に見えないご利益だけにすがっていたのではありません。

バビロンと敵対関係にあったエジプトと同盟を結び、外交的な活路を開く努力も怠りませんでした。


このような世情で、バビロンへの無条件降伏を呼びかけるエレミヤが迫害されたのは当然です。

エレミヤ自身、預言が民から歓迎されないものであることを重々承知でした。

いっそ自分など生まれなければ良かったと嘆く、エレミヤの苦悩が記録されています。


民は職業的祭司の希望的預言を拍手喝采する一方で、神様は容赦なくその欺瞞を断罪しています。


聖句

もし、この民が――預言者であれ祭司であれ――あなたに、「主の託宣(マッサ)とは何か」と問うならば、彼らに、「お前たちこそ重荷(マッサ)だ。わたしはお前たちを投げ捨てる、と主は言われる」と答えるがよい。預言者にせよ、祭司にせよ、民にせよ、「主の託宣だ」と言う者があれば、わたしはその人とその家を罰する。お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」とだけ言うがよい。「主の託宣だ」という言い方を二度としてはならない。なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神である我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ。預言者にはただ、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」と言うがよい。(エレミヤ23章33-37)


我々は知らず知らずのうちに、自分が正しいと思うことを「神の願いは・・・」と断定的に語る傾向があります。

神様は本当はそう願っていないのに、自分の考えではなく神の考えであるかのように、語ってしまうのです。


ここまで書いた時点で、「ははあ、サマリア人は自分のことをエレミヤになぞらえて、正当性を主張されるのですね、誰も話を聞いてない点はそうかもしれませんが、状況は全然違いませんか」と思われた読者もいるでしょう。


私はブログを開始してから、神様の声を聞いたことがありません。

「独生女は完全に正しい、真の母を批判したことを謝罪して、ブログを削除せよ」と雷が落ちたら、どんなに良いだろうと思います(談判祈祷で何度も念を押したのですから、後付けで雷を落とされるのなら神様に抗議しますが)。


ある食口から、「(独生女について)神様はどうお考えなんでしょうね」と聞かれたので、すかさずこう返しました。

「この問題については、一切教えてくれませんよ、八大教材を訓読して、祈って自分で決めるしかないようです」と。


その食口がエレミヤ書の判断からそのように質問したのか、分かりません。

しかし「それが神様から来た言葉でないなら、私は聞かない」という意図の質問であれば、人間の責任分担を軽視した姿勢だと言えます。

神様はいつでも啓示や黙示で教えてくれるのではなく、人の言葉や出来事を通して悟るべき内容も多々あるからです。


神様から命令もされてないのに、ブログを書き続ける私の原動力は何なのかと、改めて考えます。

(職業的祭司のように)食口が見たいものだけを見て、偽りの希望にしがみついていることを、容認できないからか。

悔い改めという然るべき段階を経れば、未来には本当の希望があることを信じているからか。


数ある預言書には、「聞け」という言葉が何度も出てきます。

聞きたくない言葉を、誰も聞こうとしなかったからでしょう。

「神様が手取り足取り教えてくれるまで、私は何もしない」という姿勢であれば、限られた地上生活を勝利することは難しいのです。

さて、異邦人サマリア人氏は「黒・天聖経」を21回以上も読まれたでしょう。


そこに「独生女」も書かれていましたが、談判祈禱をしても頑ななままでは神様はそれを「聞け(見ろ)」という心からの声も聴くことは出来ません。

一人娘(独生女) の補足です。以下の韓国語版からです。


ひとり子が出てきたのに、ひとり子が一人で暮らしたなら大変なことです。ひとり娘がいなければなりません。それで、ひとり娘を探して、神様を中心として、ひとり子とひとり娘が互いに好む場で結婚しなければならないのです。それで、神様が縦的な父母として喜び、その神様のひとり子とひとり娘が横的な父母として喜びうる新郎新婦になって、地上で息子、娘を生まなければなりません。そうしてこそ初めて、一族が広がり始めるのです。


天聖経(黒表紙)韓国語版のP.177の記載文(以下)。









私からは、上記記事群にて黒・天聖経の「独生女」記載を紹介していました。
日本語記述では「ひとり娘」との翻訳が当てられているようです。
黒・天聖経には全部で10個の「独生女」ですから、サマリア人氏は少なくとも「10個  × 21回 =210」の「ひとり娘(独生女)」を見られていた計算になります。


お父様の遺言のように語られていた「八大教材教本」、その一つの「黒・天聖経」を21回以上も読まれたサマリア人氏の結果が以下ですか?

私はブログを開始してから、神様の声を聞いたことがありません。


「独生女は完全に正しい、真の母を批判したことを謝罪して、ブログを削除せよ」と雷が落ちたら、どんなに良いだろうと思います(談判祈祷で何度も念を押したのですから、後付けで雷を落とされるのなら神様に抗議しますが)。

ある食口から、「(独生女について)神様はどうお考えなんでしょうね」と聞かれたので、すかさずこう返しました。


「この問題については、一切教えてくれませんよ、八大教材を訓読して、祈って自分で決めるしかないようです」と。

談判祈禱までせずとも、既に「黒・天聖経」にその答えが書かれていたではないですか!!