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子羊さんコメント欄からまた…またまた…tomy4509コメントを削除!



今回自称ルポライターtomy4509からは、これまで何度もほふられて子羊さんへの質問を投げかけていた一つに「アブラハムによるイエスの典型路程」、つまりは原理講論P.318、P.326(以下引用)を根拠としながら、こんにち再臨主・真の父母様にもこのような路程があったと主張していたものでした。

P.318

アブラハムは、第二人間始祖たるノアの立場を復帰しなければならなかった。したがって、またアダムの立場にも立たなければならないので、彼は「象徴献祭」をする前に、アダムの家庭の立場を復帰する象徴的蕩減条件を、初めに立てなければならなかった。創世記一二章10節以下の聖句によれば、アブラハムは飢饉によってエジプトに下ったことがあった。そこで、エジプト王パロが、アブラハムの妻サライを取って、彼の妻にしようとしたとき、アブラハムは、彼女と夫婦であると言えば、自分が殺される憂いがあったので、あらかじめ計って、自分の妻サライを  妹  であると言った。このように、アブラハムは彼の妻サライと兄妹の立場から、彼女をパロの妻として奪われたが、神がパロを罰したので、再びその妻を取り戻すと同時に、連れていった彼の甥ロトと多くの財物を携えて、エジプトを出てきた。アブラハムは自分でも知らずに、アダムの家庭の立場を蕩減復帰する象徴的な条件を立てるために、このような摂理路程を歩まなければならなかったのである。


アダムとエバが未完成期において、まだ兄妹のような立場にいたとき、天使長がエバを奪ったので、その子女たちと万物世界のすべてが、サタンの主管下に属するようになった。したがって、アブラハムがこれを蕩減復帰するための条件を立てるためには、既に明らかにしたように、兄妹のような立場から、妻サライを、いったんサタンの実体であるパロに奪わせたのち、彼の妻の立場から、再び彼女を取り返すと同時に、全人類を象徴するロトと、万物世界を象徴する財物を取り返さなければならなかったのである(創一四・16)。このようなアブラハムの路程は、後日イエスが来て歩まなければならない典型路程となるのである。アブラハムは、このような蕩減条件を立てたのちに、初めて、鳩と羊と雌牛でもって「象徴献祭」をささげることができたのである。

P.326

アブラハムは、イサクを供え物としてささげるときにも、「象徴献祭」をささげたときと同じように、まず、アダムの家庭を復帰する象徴的な蕩減条件を立てて、イサク献祭のための信仰を立てなければならなかった。ゆえに、再びアブラハムは自分の妻サラと兄妹の立場に立って、サラをゲラルの王アビメレクに奪われ、いったん、彼の妻になった立場から、再び取り戻すという摂理が行われた。アブラハムは、このときも、サラと共に人類を象徴する男女の奴隷と、万物世界を象徴する財物を取り戻して出てきたのである(創二〇・1〜16)。

ここで子羊さんが「アブラハムによるイエスの典型路程」として強調して主張していたことは、アブラハムは妻サライをサタンに差し出したと同じようにイエスの再臨としての真の父母様の路程でもサタンに差し出した「堕落エバ」から復帰されたお母様、また、そのお母様も失敗したゆえに「真の父母」となることが出来なかったというものでした。


ところがtomy4509からは、典型路程というからにはアブラハム路程はイエスの象徴路程であり、モーセ路程は形象路程、イエス路程は実体路程ですから、アブラハムにあればモーセ路程にも同じことがあって然るべきですが、それが見当たりませんというものでした。


今回コメント欄には、アブラハムのサライは一旦はサタン側の王へ奪われましたが、神様が保護したため手を出すことが出来なかったは聖書の記述でしたし、お母様もご聖婚後の「絶対服従」の7年路程の勝利があったから「神の日」を制定することが出来た、つまりはサタン下にあってもお父様への「絶対愛、絶対信仰、絶対服従」を貫かれた勝利ゆえであったことを提示したものでした。
ところが、今回のコメント削除も子羊さんには致命的ともいえる核心を突いていたためのそれだったということなのでしょう。




さて、改めて原理講論の引用の赤太字に注目してみてください。
ここで書かれていることは子羊さんの主張とは違って、アブラハム家庭が「第二人間始祖たるノアの立場を復帰」、「アダムの家庭の立場を復帰する象徴的蕩減条件」としてのもの、つまりは、「アダムとエバが未完成期において、まだ兄妹のような立場」を復帰することを意味していたものでした。


真の父母様のご聖婚ですが、23歳の親子のような年齢差の韓総裁が来られました。当時は様々な噂が飛び交いながらもお母様の「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」の勝利故にサタンは屈服しては「神の日」を迎えることが出来た、となります。


子羊さんやほか非原理集団の方々にも言えることですが、同じみ言であっても自分勝手な解釈ではなく、天のみ旨成就を中心として考えられるべきです。